井上萬二|Manji INOUE

井上 萬二|Manji INOUE

陶歴

Profile

1929年 佐賀県有田町生まれ
1958年~ 佐賀県展入選入賞、知事賞、美術協会賞、その他賞、県選抜展2回出品
1963年~ 一水会陶芸部連続入選、一水会賞、会員優賞
1967年 九州山口陶磁展 文部大臣奨励賞2回
1969年 3月より5ヶ月間ペンシルバニア州立大学美術学科で派遣教授として作陶指導、1976年迄4回指導渡米
1971年~2000年 日本陶芸展入選、同カナダ、
アメリカ巡回展、南米巡回展 招待出品
1979年 労働大臣表彰 現代の名工として
1983年~2017年 ニューメキシコ州立大学美術学部にて美術指導のため17回渡米
1986年 中国景徳鎮友好視察
     ヨーロッパ美術視察等
1986年 佐賀県芸術文化功労賞
1987年 9月日本伝統工芸展文部大臣賞受賞
1987年 文化庁文部大臣賞作品買上げ
1988年 内閣総理大臣と芸術を語る会招待
1993年 5月佐賀県県政功労賞
1968年~2017年 日本伝統工芸展入選
       日本工芸会正会員
1995年 4月日独文化交流展のためドイツにて個展(外務省 ドイツ美術博物館主催)
1995年 5月重要無形文化財指定(人間国宝)
1995年 日本伝統工芸展鑑査委員
     究極の陶芸「人間国宝八人展」出品
1997年 10月文化交流のためハンガリー民族博物館にて個展、東京国立近代美術館作品買上(1996年日本伝統工芸展作品)
1997年 11月紫綬褒章受章
1999年 3月文化交流のためモナコにて「レニエ大公即位50周年記念」個展
2000年 4月茨城県立美術館作品買上収蔵
2000年 10月文化交流のためポルトガル国立ベレン文化センターにて個展
2001年 4月岐阜県立美術館作品買上げ
2002年 11月西日本文化賞受賞
2003年 8月日本伝統工芸展審査員
2003年 11月旭日中綬章受章
2007年 5月文化交流のためポーランド国立クラクフ美術学院にて個展
2012年 9月・12月文化交流の為、ニューヨーク・香港にて個展
現 在  日本工芸会参与、有田町名誉町民

 

作陶家:井上萬二

有田焼を代表する作家である井上萬二氏、一切の装飾を施さず造形のみを突き詰め、純白の中に美を表現する白磁の世界、その技術の高さは人間国宝である重要無形文化財「白磁」の保持者であることや紫綬褒章受賞・旭日中綬章受章といった輝かしい経歴が証明しています。

井上萬二氏の作品の特徴は、なんといっても造形の美しさにあります。端正な中にも柔らかさや温もりを感じさせる作品は、高度な轆轤技術に基づいて作られ、追求を重ねたシンプルな造形美は至高の白磁とまで呼ばれるようになりました。その艶やかな白い地肌に品格ある佇まいが唯一無二の存在感を放ってます。

 

Gallery

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有田焼の歴史

有田焼は色とりどりの絵具で彩色された日本を代表する磁器です。その歴史は古く、今から400年前まで遡ります。豊臣秀吉による*文禄・慶長の役で佐賀藩 鍋島直茂が連れ帰った陶工、李参平(日本名:金ケ江三兵衛)が1616年、有田泉山(ありたいずみやま)に磁器原料となる良質な陶石を発見したのが有田焼の始まりとされています。

有田焼の特徴は、透き通るように白い磁肌に呉須(ごす)と呼ばれる藍色の顔料で描いた染付(そめつけ)や色絵(いろえ)と呼ばれる上絵付け(うわえつけ)を用いた華やかな彩色が特徴。耐久性が高く、美術品から日用品まで様々なものが生産されました。“上絵付け”とは、釉薬をかけて焼成した磁器の表面に絵柄を施すことで、釉薬をかける前に絵柄を施す“下絵付け”に対して、釉薬の層の上から描くため“上絵”と言われます。また、“下絵付け”は藍色の呉須で描かれるのに対し、“上絵付け”は多彩な色で描かれます。長い歴史の中で完成された有田焼は、一般的に「古伊万里様式」「柿右衛門様式」「鍋島藩窯様式」の三様式に分けられます。

 

「古伊万里様式」

肥前有田で江戸時代に生産された、濃い染付と金襴手(きんらんで)と呼ばれる赤や金の絵具を贅沢に使った様式のことです。当時、これらの磁器は有田に隣接する伊万里の港から船積みされたことによりこの名が付けられました。 金襴手とは、色絵の磁器の上に金泥や金粉をあしらった金彩を施し、絢爛豪華に模様を描いたものです。

 

「柿右衛門様式」

濁し手(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地に描かれた赤・青・緑・黄などの鮮やかな彩色を施した、「赤絵」と呼ばれる上絵付けの色絵が特徴です。ふんだんに余白をとる構図から「余白の美」とも称されました。柿右衛門様式の器は輸出用色絵磁器として飛躍的に発展し、数多くの作品がヨーロッパに渡り、ドイツのマイセン窯などでは、模倣品もたくさん作られました。

 

「鍋島藩窯様式」

青みがかった地肌や櫛高台、裏文様に特徴があります。 その技法は、染付と赤・青・緑の三色を基調とした「色鍋島」、藍色で精緻に描かれた「藍鍋島」、自然の青翠色の「鍋島青磁」があります。 なかでも上絵を伴った「色鍋島」は佐賀藩主が使う食器や、諸大名・幕府への献上品として使われました。藩窯であったからこそ実現した類まれなる様式美と言え、当時の技術の粋を集めた色鍋島は、柿右衛門様式と並び、有田を代表する美を誇っています。

伊万里焼と有田焼の違いですが、佐賀県有田町周辺でつくられる磁器のことを有田焼といいます。江戸時代、有田で焼かれた磁器は、有田のお隣、伊万里(伊万里市)の港から輸出されていたため、伊万里焼という名で全国に普及しました(伊万里焼=有田焼)。その後、明治時代以降になると、有田で作られた磁器は生産地の名前をとって、有田焼と呼ばれるようになります。また、骨董品などでよく耳にする“古伊万里”は江戸時代につくられた有田焼のことを指し、現在は伊万里市の大川内山でつくられたものを伊万里焼といいます。

現在の有田の町には、多くの窯元が点在し、また次の時代の陶工を育てようと、窯業大学校という焼き物を習う専門学校までそろっています。また、有田泉山(佐賀県有田町泉山)での採掘は殆どなくなり、より使いやすい熊本県は天草陶石が主流となっています。

※文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)

文禄元年(1592年)から慶長三年(1598年)の6年間にかけ、豊臣秀吉が明国(現在の中国)征服をめざして朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)に侵略した戦争。最初の1回目の戦いを「文禄の役」(1592~1593)、2回目の戦いを「慶長の役」(1597~1598)と呼びます。1959年、豊臣秀吉の死で戦いは幕を下ろします。

 

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