作陶家:井上萬二
有田焼を代表する作家である井上萬二氏、一切の装飾を施さず造形のみを突き詰め、純白の中に美を表現する白磁の世界、その技術の高さは人間国宝である重要無形文化財「白磁」の保持者であることや紫綬褒章受賞・旭日中綬章受章といった輝かしい経歴が証明しています。
井上萬二氏の作品の特徴は、なんといっても造形の美しさにあります。端正な中にも柔らかさや温もりを感じさせる作品は、高度な轆轤技術に基づいて作られ、追求を重ねたシンプルな造形美は至高の白磁とまで呼ばれるようになりました。その艶やかな白い地肌に品格ある佇まいが唯一無二の存在感を放ってます。
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有田焼の歴史
有田焼は色とりどりの絵具で彩色された日本を代表する磁器です。その歴史は古く、今から400年前まで遡ります。豊臣秀吉による*文禄・慶長の役で佐賀藩 鍋島直茂が連れ帰った陶工、李参平(日本名:金ケ江三兵衛)が1616年、有田泉山(ありたいずみやま)に磁器原料となる良質な陶石を発見したのが有田焼の始まりとされています。
有田焼の特徴は、透き通るように白い磁肌に呉須(ごす)と呼ばれる藍色の顔料で描いた染付(そめつけ)や色絵(いろえ)と呼ばれる上絵付け(うわえつけ)を用いた華やかな彩色が特徴。耐久性が高く、美術品から日用品まで様々なものが生産されました。“上絵付け”とは、釉薬をかけて焼成した磁器の表面に絵柄を施すことで、釉薬をかける前に絵柄を施す“下絵付け”に対して、釉薬の層の上から描くため“上絵”と言われます。また、“下絵付け”は藍色の呉須で描かれるのに対し、“上絵付け”は多彩な色で描かれます。長い歴史の中で完成された有田焼は、一般的に「古伊万里様式」「柿右衛門様式」「鍋島藩窯様式」の三様式に分けられます。
「古伊万里様式」
肥前有田で江戸時代に生産された、濃い染付と金襴手(きんらんで)と呼ばれる赤や金の絵具を贅沢に使った様式のことです。当時、これらの磁器は有田に隣接する伊万里の港から船積みされたことによりこの名が付けられました。 金襴手とは、色絵の磁器の上に金泥や金粉をあしらった金彩を施し、絢爛豪華に模様を描いたものです。
「柿右衛門様式」
濁し手(にごしで)と呼ばれる乳白色の素地に描かれた赤・青・緑・黄などの鮮やかな彩色を施した、「赤絵」と呼ばれる上絵付けの色絵が特徴です。ふんだんに余白をとる構図から「余白の美」とも称されました。柿右衛門様式の器は輸出用色絵磁器として飛躍的に発展し、数多くの作品がヨーロッパに渡り、ドイツのマイセン窯などでは、模倣品もたくさん作られました。
「鍋島藩窯様式」
青みがかった地肌や櫛高台、裏文様に特徴があります。 その技法は、染付と赤・青・緑の三色を基調とした「色鍋島」、藍色で精緻に描かれた「藍鍋島」、自然の青翠色の「鍋島青磁」があります。 なかでも上絵を伴った「色鍋島」は佐賀藩主が使う食器や、諸大名・幕府への献上品として使われました。藩窯であったからこそ実現した類まれなる様式美と言え、当時の技術の粋を集めた色鍋島は、柿右衛門様式と並び、有田を代表する美を誇っています。
伊万里焼と有田焼の違いですが、佐賀県有田町周辺でつくられる磁器のことを有田焼といいます。江戸時代、有田で焼かれた磁器は、有田のお隣、伊万里(伊万里市)の港から輸出されていたため、伊万里焼という名で全国に普及しました(伊万里焼=有田焼)。その後、明治時代以降になると、有田で作られた磁器は生産地の名前をとって、有田焼と呼ばれるようになります。また、骨董品などでよく耳にする“古伊万里”は江戸時代につくられた有田焼のことを指し、現在は伊万里市の大川内山でつくられたものを伊万里焼といいます。
現在の有田の町には、多くの窯元が点在し、また次の時代の陶工を育てようと、窯業大学校という焼き物を習う専門学校までそろっています。また、有田泉山(佐賀県有田町泉山)での採掘は殆どなくなり、より使いやすい熊本県は天草陶石が主流となっています。
※文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)
文禄元年(1592年)から慶長三年(1598年)の6年間にかけ、豊臣秀吉が明国(現在の中国)征服をめざして朝鮮(現在の韓国、北朝鮮)に侵略した戦争。最初の1回目の戦いを「文禄の役」(1592~1593)、2回目の戦いを「慶長の役」(1597~1598)と呼びます。1959年、豊臣秀吉の死で戦いは幕を下ろします。
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